大徳寺

Daitokuji Temple

大徳寺

大徳寺は、京都市内の中でも数多くの塔頭に囲まれているエリアに位置していますが、その中でも負けず劣らずの歴史とエピソードを兼ね備えています。

歴史好きの方なら、千利休が切腹を命ぜられるきっかけとなった「金毛閣」の事件が思い出されることからもわかる様に、特に茶道との縁が深く、禅と茶の湯の融合は大徳寺から始まる、とも言われています。

ご承知のように、茶道にとって畳は切っても切り離せない関係であります。

当店の代々の店主が幼少の頃、遊び場として日参していた大徳寺ですが、その歴史を知れば知るほど、門前に畳屋を構えさせて頂いていることを、誇りに思うと同時に、日本古来のこの伝統文化を次世代、そして、世界中に伝えることが使命であると、感じています。

皆様も京都にいらっしゃった際には、大徳寺で、日本文化の象徴「わびさび」を堪能してください。そして、ついでに「もとやま畳」も覗いていただき、伝統の技と実感していただけましたらと思います。

大徳寺について(臨済宗 黄檗禅 公式サイト)

大徳寺と茶道

以下は大徳寺と茶道の関係について記しています。ご参考までに、是非ご覧ください。


大徳寺

大徳寺は元応元年( 1319年)、武将赤松則村が宗峰妙超(大燈国師)を開山に小庵を開き、花園上皇、後醍醐天皇の帰依をうけて栄えた。後、幕府と対立して寺運が衰え、さらに亨徳 2年(1453年)の大火、応仁の乱(1467-1477年)で荒廃していたのを、文明年間( 1469-87年)に一休宗純が堺の豪商たちの援助を得て再建し、名僧を相次いで輩出、新興の大名や武将、豪商たちの帰依により再び降盛を極めていった。

現在の建物はほとんど江戸時代初期のもので、勅使門は皇居の陽明門を下賜、仏殿には釈迦如来がまつられている。

三門は連歌師宗長が再建したものをさらに利休が今日見るような重層の三門に修造した。上層に利休の像を置いたことから、秀吉の怒りをかい、自刃に追いやられたという。その真偽はともかく、この三門の由緒を思い浮かべながら山内を歩くと次々と時代背景が映って、茶の湯を修道しているものにとっては念入りにまわりたいところである。

茶といえば大徳寺、「大徳寺の茶づら」といわれる。茶はもともと栄西が中国からもたらしたものゆえ、禅宗につきものと考えられる。そして茶祖と仰がれる珠光が大徳寺で一休宗純のもとで修行していた時に「茶禅一味」なるを悟り、茶を道として修道するようになった。その茶道を受け継いだのが紹鴎、茶の湯を大成したのが紹鴎の弟子、利休という関係になり、いずれも堺の豪商であった。

寺内には茶の湯にふさわしい茶室を付随させて心を癒すとともに、一座建立の中で、時代に深く関わった人たちの出会いがあり、そこで茶の湯が栄えたのではないだろうか。そういう意味で大徳寺は現在も茶の湯ともっとも深い関係である。

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